ペットの将来を考えて

長い時間一緒にいることで芽生える家族愛

ペットは愛玩動物であるとみなしている人もいるだろう、それはそれで見方として問題ない。しかし昨今のニュースなどに取り上げられている内容などを見ると出てくるのは、虐待、もしくはそれ以上の非道な行いによって命を落とすことになる動物たちの姿が報道されることが多く、個人的に非常に心が痛かった。人間のエゴで飼育されることになる犬や猫、その他の動物たちをただの畜生としか認識していない人がいる、その事実がどうにも信じられない。姿形は人間から程遠いが原点を辿れば犬も猫も同じ哺乳類であり、そして命を持っている生き物だと、当たり前なことに対してまるで気にすることなく、弄ぶ人たちは何を考えているのだろうか。特に日本人、この国における動物に対しての接し方はすべてがある意味平等に取り扱われているように思う。

筆者は動物たちに対して抵抗感は持っていない、牛にしても、豚にしても、鶏にしても、彼らの存在があってこそ食料という基礎が成り立っている、本来なら彼らに感謝しなければならないのだ。そのことを当然のように扱われる様を目撃して、落ち着いていられるだろうか。淘汰される運命にある彼らに向ける愛情は牧場で飼育している人々にとっても大事なこと、最後に食する事になってしまう運命にある彼らを、最後の瞬間まで見届ける様は大人になればなるほどその苦しみが伝わってくるようだ。

動物は生きている、だが人間と違って彼らに言葉という概念は存在しない。それでも彼ら動物にも心は存在している、そんなものがあるわけないなどと与太話を発するものは、個人的に断頭してやりたい気分だ。猫にしても、犬にしても、飼い主から一心に純粋な愛情を向けられればまっすぐに答えてくれる。それを人間の方でも感じられるようになれば、彼らとの間に固い絆が芽生えてたと言える瞬間だ。

どんなになっても帰りたかった

つい最近、こんなニュースをネットで見た事がある。動物飼いからすれば信じられない、もしくは奇跡とも言っていいような出来事がアメリカで起こったという。それは死亡したはずの愛猫を土葬した数日後に、ボロボロになりながらも帰宅してきたというのだ。自転車にはねられて獣医師からも死亡判定を受け、飼い主は悲しみに暮れながらも土葬をしたが、埋葬された中で猫は息を吹き返して自ら地中から地上へと這い上がり、数日間損傷して生きているのがが不思議な体を引きずりながら、飼い主の元へ何とか戻ったというのだ。

その後獣医師の元へ訳が分からないまま連れて行き、現在治療を受けているというのだ。そんなことがあるのだろうかと思ったが、筆者はこのニュースを見て他人事ではいられなかった。その理由は、その数日前に十数年来を共にした老猫が厳しい闘病の末に、長い生の時間に終止符を打ったのだ。何匹もの会猫達の死に様を目撃してきたため、筆者は悲しむのではなく、笑顔で見送ることにしているが、このニュースを見たときは感極まって涙が溢れそうになったものだ。もしかしたら帰ってくるかもしれない、そんな幻想を抱いてしまった時点で押し殺していた悲しみが沸き上がってきてしまい、既に死んでいることが明白だったあの子が、なんて事も考えてしまう。

この報せを見た時はペットを飼っていない人でも、また飼っている人ならなおさら飼い主と猫との絆の深さを実感したはず。自力で這い上がり、ただ一心で自宅に戻っていった猫、ゾンビなどともやゆされるが飼い主は恐れるどころか生き返ったことに喜び、病院に連れて行ったことで、この飼い主にとっても猫がどれだけ大きな存在だったのかが理解できる。

悲しみにくれる犬

この蘇生した猫のニュースが世界中へ発信される以前から、動画サイトなどで話題となった物がある。筆者もその動画を見た時、その思いにやはり感極まってただただ、見ているしかない苦しみと、置いて行かれた慟哭を味合わされた。

ある日のこと、誰かの墓標が映しだされた。ただその上には墓の上に横たわり、ただただ居なくなってしまった人を思いながら悲しみにくれている犬の姿が淡々と動画にアップされた。その犬は悲しみをまざまざと、まるで人間の号泣している姿のように延々と泣きじゃくっているのだ。長い時間一緒にいたからこそ、突然居なくなってしまったことを察知した犬は、墓標の前でご主人ともう二度と会えないことを理解したことがこの動画から伺える。

こうした姿を見ると犬にしても、そして猫にしても、共に直接的な要因で伝わらなくても飼い主に対して愛情を精一杯向けているのが理解できるはず。これを見てそんなものまやかしだなどと発現するのであれば、それは人間の皮をかぶった化け物同然だ。ただ日本だけでなく、世界中で動物たちに対する虐待をしている人はいる、情報がすべて流れるわけではないのでどうしても日本国内に限定されてしますが、ただの商売道具としか見ていない人もいる。それで本当にいいのだろうか、生きとし生ける存在を無碍に扱うことが人間に許されているのだろうか、動物に対する飼い方もこれから先は考えていかなければならないだろうと個人的に考えている。

覚悟を持った人間が飼わなければならない

安易に動物を飼育しようなどとは思わないこと、これはペット飼いに取って大原則だ。また飼育するということは、将来的に待っているペットの死まで面倒を見続けなければならない。この点を勘違いしている人が多く、自分たちで責任を取ることもできず、一時の感情任せで動物を飼った人の結末は大抵喜べない結末を迎えている。また動物も人間と同じように寝食をすることになり、その中で身体的に病を患ってしまうことだってある。

ペットを飼育する際には自宅周辺に動物病院が何処にあるのか、また自宅からどこまで時間がかかるのかなどを事前に調べなければならない。必要があるではなく、必ず調べなければならないのだ。誰に支持されたからといった外的理由から行動するのではなく、自発的に調査する。病気にかかっても病院に連れて行ったところで意味が無い、治療費がかかるから連れて行きたくない、などとも考えているのであれば、その時点で飼育するだけの資格も権利もない。

こうしてみると将来的にペットも誰もが飼えるものにするのではなく、きちんとした資格を取得する、もしくは検査を通して許可される、と言った形にするのが理想的なのでは、なんてことも個人的には考えた。度々問題になる動物問題、動物愛護法という観点から考察するのであれば、これくらいのことは必要なのではないか、そんな風にも思っている。

個人的な空想論はともかくとして、長くずっと生活していくことになるペットたちの健康面を考えれば医療面についても色々と調べておかないといけない情報がたくさんある。ここからはそんな情報を個人的観点から見た部分も含めて、紹介していこう。